外様大名の定義の変化…関ヶ原の戦い「以降?」,「前後?」
こんにちは。
今日は社会の変更点の話です。
塾向けの教材を見ていて気がついたことです。
私もZ会進学教室で社会科の教材を作成していましたが,
基本的には私1人で作っていました。担当者が1人ということです。
教科書は,何人もの専門家の方が手分けをして書き,チェックもして,
さらに文部科学省の検定も通過してと,かなり丁寧に間違いのないように作られています。
一方で,塾教材などは,手間も時間もお金もふんだんにかけられないのが事実です。
やはり,間違いは出てきてしまいます。私の場合でも,歴史・地理・公民の3分野をすべて1人で担当したわけですから,どうしても行き届かない点は生じてしまいます。
一言付け加えると,重大なミスはないでしょうし,仮にあったとしても訂正が出されるはずですので,入試対策として使用される分にも問題はないでしょう。
私が作成した教材にも,細かなミスはどうしてもあるはずで,生徒さんたちや関係者には申し訳なく思っています。
さて,本題です。
と,ある塾教材に書いてありました。
昔は教科書にもこのように書かれていたのですが,正確ではないということで,教科書の記述が改まっています。
『社会科 中学生の歴史』(帝国書院)P103より引用
『詳説 日本史B』(山川出版社)P171の欄外「大名」の注より引用
「外様は関ヶ原の戦い前後に徳川氏に従った大名をいう。」
つまり,
以前は「関ヶ原の戦い以降」と記述されていたものが,
今では「関ヶ原の戦い前後」とか「関ヶ原の戦いのころ」と改められています。
こちらのほうが正確だからですね。
黒田家や福島家などは,関ヶ原では東軍(家康方)につきますが,外様大名ですね。
ですから,「前後」という表現のほうがより適切となります。
もう少し詳しくいうと,豊臣政権下において,
徳川家康は1人の大名でしたが,同様に豊臣政権下でも大名だったものが,したがって関ヶ原前後に徳川家の支配に組み込まれることになりますが,外様大名です。
譜代は,豊臣政権下で1人の大名だった徳川家の家臣ということになります。
整理すると,外様は「大名」という意味では豊臣政権下で徳川家と同格,
譜代は,豊臣政権下でも徳川家の家臣だったということです。
社会は変更点が多く,なかなか大変ですね。
こうした文言の変化に気がつくことがよくあるかと思います。
自分のころとは違う文言が使用されていたなら,それにはきちんとした理由があるはずです。
現行の教科書と同じ文言で教えると間違いがないかと思います。
では。